第9話 問い合わせボタンを押すまで
家族四人で、これからの暮らしを話し合った夜。
リビングのテーブルに広げた白い紙には、たくさんの言葉が残っていた。
明るいリビング。
できるだけ多くの収納。
小さくても落ち着ける場所。
休日には、近くのカフェでゆっくり過ごす。
行列のできる人気店へ、家族で歩いて出かける。
まだ土地を買っていない。
家が建つかどうかさえ分からない。
それでも、私たちの中では少しずつ、新しい暮らしの姿が見え始めていた。
その一方で、私はスマートフォンの画面を前に、なかなか次の一歩を踏み出せずにいた。
物件ページには、繰り返し目にした情報が並んでいる。
土地面積、約37㎡。
価格、3,680万円。
駅からの距離。
周辺環境。
見返しても、数字は変わらない。
画面の下には、
「この物件について問い合わせる」
というボタンが表示されていた。
押せばいい。
ただ、それだけだった。
しかし、その小さなボタンが、私にはとても重く感じられた。
物件情報を眺めている間は、自由に想像することができた。
ここにリビングをつくろう。
三階には家族の部屋をつくろう。
休日は商店街を歩こう。
そんな未来を、好きなように思い描くことができる。
けれど、問い合わせをすれば、話は現実になる。
不動産会社から連絡が来る。
土地の詳しい説明を受ける。
資金について聞かれる。
家を建てる計画を、本当に進めるのかと問われる。
私には、その覚悟がまだ十分にできていなかった。
51歳。
すでに一度、注文住宅を建てている。
住宅ローンも残っている。
家族の生活もある。
勢いだけで進められる話ではない。
だから私は、自分に何度も問いかけた。
本当に、この土地が欲しいのか。
この価格で買っても大丈夫なのか。
約11坪の土地に、家族が暮らせる家を建てられるのか。
そして、51歳からもう一度、住宅ローンを組むことができるのか。
考えれば考えるほど、不安は増えていった。
知ることが怖かった。
物件ページを開く。
問い合わせフォームに進む。
名前を入力する。
メールアドレスを入力する。
電話番号を入力する。
問い合わせ内容の欄には、
「建築条件や、建物の建築が可能か詳しく知りたい」
と書いた。
そこまで入力して、指が止まった。
あとは送信ボタンを押すだけだった。
それでも私は、画面を閉じた。
数時間後、また物件ページを開いた。
同じ情報を見る。
同じボタンを押す。
同じように途中まで入力する。
そしてまた、送信できずに画面を閉じた。
何を迷っていたのだろう。
すでに売れているかもしれない。
家を建てられない土地かもしれない。
住宅ローンが通らないかもしれない。
予算を大きく超えるかもしれない。
おそらく私は、悪い結果を知ることが怖かったのだと思う。
問い合わせをしなければ、まだ可能性は残っている。
知らないままでいれば、
「いつか買えるかもしれない土地」
として、心の中に置いておくことができる。
けれど、現実を知れば、その夢が一瞬で終わるかもしれない。
だから私は、最後のボタンを押すことができなかった。
画面を見つめたまま動かない私に、妻が言った。
「問い合わせるだけでしょう?」
私は画面から目を離さずに答えた。

「そうなんだけどな」
妻は少し間を置いて、続けた。
「聞いてみないと、何も分からないんじゃない?」
そのとおりだった。
問い合わせをしたからといって、必ず買わなければならないわけではない。
詳しい話を聞いたうえで、難しいと思えばやめればいい。
それでも私は、問い合わせをすること自体を、土地を買う決断のように感じていた。
おそらく、それだけこの土地に心が動いていたのだと思う。
興味のない土地なら、何も迷わない。
軽い気持ちで問い合わせることもできただろう。
失うのが怖いと感じたのは、すでにこの場所で暮らす未来を、少しだけ信じ始めていたからだった。
翌朝。
いつものように、コーヒーを飲みながらスマートフォンを開いた。
物件ページは、まだ掲載されていた。
私はもう一度、問い合わせフォームを開いた。
名前。
メールアドレス。
電話番号。
希望する連絡方法。
そして問い合わせ内容。
昨日と同じ項目を、もう一度入力した。
最後に表示されたのは、送信ボタンだった。
その瞬間、これまでの日々が頭に浮かんだ。
毎朝、SUUMOを開いていたこと。
何度も、更新ボタンを押したこと。
初めて現地へ向かった朝。
土地を見た瞬間に、
「ここだ」
と思ったこと。
帰り道、何度も振り返ったこと。
妻や子どもたちに写真を見せたこと。
家族四人で、白い紙に未来を描いたこと。
ここまで来て、問い合わせもしないまま諦めるのは違う。
買えるかどうかは、まだ分からない。
家が建つかどうかも分からない。
住宅ローンが通るかどうかも分からない。
それでも、分からないことを理由に立ち止まっていたら、何も始まらない。
私は、一度深く息を吸った。
そして、画面のボタンに指を置いた。
「この物件について問い合わせる」
押した瞬間、画面が切り替わった。
「お問い合わせを受け付けました」
という文字が表示された。
本当に小さな動作だった。
ほんの一秒にも満たない。
けれど、その一押しによって、私たちの家づくりは初めて、想像の世界から現実へ動き始めた。
問い合わせを送ってから、私は少し落ち着かない気持ちで連絡を待った。
どんな担当者から連絡が来るのだろう。
この土地には、どんな条件があるのだろう。
本当に家を建てることができるのだろうか。
土地を買うためには、物件情報に書かれている数字だけでは分からないことが、いくつもある。
用途地域。
建ぺい率。
容積率。
接道状況。
建築上の制限。
そして、資金計画。
宅地建物取引士の資格を持っている私でも、実務の経験はない。
知識として知っていることと、実際に自分が土地を買うことは、まったく違うものだった。
やがて、不動産会社から連絡が入った。
そして私は、初めて担当者と会うことになる。
そこで私は、物件情報の画面だけでは分からなかった、この小さな土地の本当の姿を知ることになる。
次回
第10話「はじめて不動産会社へ」
一枚の名刺とともに始まった、土地についての具体的な説明。
価格、用途地域、建ぺい率、容積率。
約37㎡の土地に、本当に家は建てられるのか。
夢だった家づくりが、いよいよ現実の数字へ変わり始めます。
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